今年もタワウでのフィールドワークが行われました!
学生の皆さんが報告書を書いてくれましたので,是非ご覧ください。
マレーシア FW 活動報告書
クロスジャスミン
マレーシア、タワウでのフィールドワークを通して強く感じたことは⾃分⾃⾝に対する無⼒感だった。学⽣に過ぎず当事者ですらない⾃分に何ができるのか、実際に滞在中に何ができたのか深く考える経験となった。
最も⾃分の無⼒さを痛感したのは無国籍者の待遇改善、国籍取得などの問題を根本的に解決することが難しい点である。教会が運営している学校で⾏った交流では多くの⽣徒が意欲的に授業に参加していたこと、⽇本の同年代の学⽣と⽐べて⽣徒たちの英語能⼒のレベルが⾼いこと、また、学習⾯のほかにも⾝なりが整っていることやスマートフォンを保持していること、50 ⼈ほどの奨学⽣以外は⾃費で学費を⽀払っていることなど、想定していたほど無国籍の⼈々の⽣活の状況は深刻ではないのではないかと思ってしまうほどの学習環境の良さに驚いた。しかし、実際に⽣徒の家庭を訪問してみるとその楽観的な⾒解は間違いであるとすぐに知った。
国籍がなく不法に滞在している⼈々の集落は⾏政が介⼊しないためか整備が施されておらず、衛⽣的な問題が特に⽬についた。それほど広くはないスペースに詰め込むように家が建てられているため⼈⼝密度が⾼く、構造も⼊り組んだ形になっていた。なによりも、訪問した多くの場所でごみが地⾯に散乱していて、暑くて湿度の⾼いマレーシアでは菌の繁殖が早まり感染症等の原因になるのではないかと思った。とても理想的な⽣活環境とは⾔えなかった。
⽣活の場を直接訪問することで、無国籍者の問題は単純に「国籍がない」というだけではなく、貧困をはじめとする社会的な負の連鎖によって複雑化した問題だと感じた。貧困、⺠族的なマイノリティ、宗教など様々な要素が重なっているというだけでなく、多くの場合保護者の環境が改善されることなくそのまま⼦供に受け継がれている。このような点から考えると協会が提供している教育は⾮常に有益な投資としての役割を担っているといえるだろう。初等教育を受けることがどれほど⼦供たちの⼈⽣に影響を与えるのか、学校に⾏くよりも仕事を覚えるほうが⼦供たちのためになるのではないか、という懸念も考えられるが、こういった社会的な負の連鎖において⼦供の世代にわずかであっても変化を加えることはすごく重要だと思う。教育、特に英語や中国語のようにベースとなる知識を与えることは⼦供たちが連鎖から脱出するチャンスの幅を広げるのに⼤いに役⽴つはずだ。引き続き教会の活動を⽀援するべきだと強く感じた。次回以降の訪問については、学校の関係者の多くが資⾦不⾜による運営の難しさを⼝にしていたため、授業を⾏う教育での⽀援ももちろんだが寄付⾦を集めて提供する現物的な⽀援の形も検討するべきではないだろうか。また、可能ならば活動に無国籍者の⽣活の場の清掃活動も加えたい。⼦供たちにお菓⼦をあげることも重要な⽀援の⼀つだと思うが、そのお菓⼦のごみが結果的に地⾯に投げ捨てられ、⼈々の⽣活環境を汚すことにつながっている光景を⾒るとその⽅法に疑問を抱かずにはいられなかった。住んでいる場所を部外者に清掃される現地の⼈々の抵抗もあると予想できるため実現は難しいかもしれないが、私たちにもできる⽬に⾒える貢献になると思うのでぜひ実現させたい。
無⼒感を感じることが⼤半だったフィールドワークだったが、できたと⾃信を持って⾔えることもある。それは⼦供たちの視野を広げることだ。国籍を持たない⼈たちの集落に住み、国籍を持たない⼦供たちだけが通う学校で勉強する⼦供たちにとって⾃分たちが社会的に不利な⽴場に置かれているということを実際に認識するのは難しいことだろう。むしろ現状に慣れてしまっていたり、当たり前だと感じてしまっていたりするのかもしれない。しかし、当事者である無国籍の⼈々が強く望まない限りは部外者の私たちがどれほど活動したとしても待遇が改善されることは難しいだろう。わずかな変化に過ぎないかもしれないが、私たちが学校訪問を⾏うことで⼦供たちにいま⽣きている狭い環境とは違う世界があることを気づかせられたのではないかと思う。普段⾃分の周囲にはいない容姿の、知らない遠いところから来た⼤学⽣という存在は⼦供たちの印象に鮮明に残っているはずだ。そこで、⼦供たちが成⻑する過程で記憶の中の私たちと⽐較し、⾃由に渡航や就労、教育ができない状態に疑問を持って変化を起こすために⾏動するきっかけになりえるのではないかと思う。間接的ではあるが⼦供たちの将来の可能性を広げることに貢献できたのではないだろうか。
マレーシアで無国籍者の現状を実際に⾃分の⽬で⾒て、肌で感じることで初めて知ることがたくさんあったように思う。国が関わる⾮常に複雑かつ⼤きな問題であるため簡単に解決することはできないだろうが、今回のフィールドワークで関わったすべての⼈たちが少しでも今よりも幸せに暮らすことができるようこれからも活動を続けていきたい。
タワウ報告書
中野響⼦
マレーシアは、⾼校⽣の私が初めて 1 ⼈で渡った国です。⾼校の 1 年間いつも⼀緒にいて、それから 3 年が経った今でも定期的に会っているマレーシアの友⼈に会いに⾏きました。当時の私は、「無国籍」という⾔葉⾃体知らなかった。そして恥ずかしながら、その⾔葉を知ったのは⼤学 1 年の夏、去年のことです。
「⾶⾏機に乗るって、怖くないの?」12 歳の⼥の⼦から問われた質問の1つです。パスポートを持たない彼⼥らは、国から1度も出たことがない、出ることができない。アメリカで幼少期を過ごした従姉妹を持ち、国外での経験豊富な教授や帰国⼦⼥を含む学⽣に囲まれた環境にいる私にとって、⾶⾏機に乗りのはごく当たり前のことでした。
昨年 12 ⽉の写真展で本格的に無国籍ネットワークユースに参加しましたが、写真家の⽅などから話を聞いたりその写真を⾒ても、無国籍の⽅の状況を単に想像することしかできていなかったのだなと、今となっては思います。⾔葉は通じなくても、実際に彼らの住む家を訪れ、声を聞き、時に涙を流す⼈を⾒ることで感じたものは想像以上でした。現地の⼦どもたちとの交流は、タワウのグレーストレーニングセンター、センポルナの⼩さな⼩さな学校の 2 校でした。前者は、かなり施設の充実した⽴派な学校。後者は、10 畳ほどの⼿作りの建物で、グレーストレーニングセンターの⽣徒とは違い、⼦どもたちは私服を着てかつ裸⾜でした。
どちらの学校に通っている⼦どもたちにも共通していたのは、みんなが「知る」ことに熱⼼だということです。まず異国の地から来た私たちについて知りたいという気持ちが、彼らの私たちを⾒つめる姿から強く感じられましたし、何より私たちの問いかけに積極的に応えようとする姿、私たちに質問してくる姿、交流後に連絡先を交換しようとしてくる姿に、かなりの熱を感じました。
⽇本の学⽣はこうだろうか。私が⼩学⽣の時もこうだっただろうか。タワウに⾏った私たちの多くがこう感じたと思います。
渡航前は、正直この活動で⼦どもたちは満⾜するのか?楽しいのか?この交流に意義はあるのか?と⾃分⾃⾝問うていましたが、あの活動が彼ら、そして私たち⾃⾝に何かしらの影響を与えたということは⾃信を持って⾔えます。交流後にインスタグラムのアカウントを交換した 5 ⼈ほどの⼥の⼦からは今でも時々メッセージが来ます。些細な質問に答えると、とても嬉しそうな反応を⾒せてくれる彼⼥らは、オンライン上でもその可愛さ、健気さが伝わってきます。また来年、フィールドワークに参加できたら必ず参加したいです。
無国籍の状態こそ、教育を受けられなかったり健康を保つことが困難だったりすることで⼦どもの権利が危ぶまれる、無国籍であるからこそ⼦どもである彼らの権利を確⽴しなければならない。無国籍ネットワークユースへの加⼊を後押ししてくださった教授のこの⾔葉をタワウフィールドワークを経てしみじみと感じています。
⼩さなことから、少しずつ彼らに、また無国籍という⾔葉に関連がある⼈々の⼒になれるよう努⼒をしたいと思います。
タワウフィールドワーク 2019 報告
無国籍ネットワークユース代表 髙橋礼
私はマレーシア・タワウでの滞在を通じて多くの無国籍者たちと交流しました。現体制の無国籍ネットワークユースが、実際に無国籍の方と会うのは今回が初めてでした。私自身も、これまで活字でしか見てこなかった「無国籍」の問題に対して、直接向かいあったのは初めてであったため、多くの価値ある学びがありました。この経験を通して、私は「国籍」とは一体何を意味するのかということを幾度となく考えさせられました。国籍の有無は、何か一目でわかるような印があるわけではありません。また、「無国籍」と一口にいってもその射程は広く、多様な背景を抱えた方がいます。より良い生活を求めて決死の覚悟で海を渡り移り住む人や、生まれたときからどこの国籍も与えられていない二世の子供達、自国では外国国籍を持っていると判断されているのにもかかわらず、当該国では国籍を与えられていない方などがいます。
私たちが交流を行ったのは、主に二世である無国籍の子供達です。低学年の子供達は英語を十分に学んでおらず、意思疎通も容易ではありませんでした。私たちの英語を学校の先生方がマレー語に訳してくださり、やっと伝わるという形でした。しかし、言語の壁があろうと、彼らが無国籍であろうと、私たちがタワウで出会った子供達の無邪気さや好奇心は、普段日本で接するやんちゃな子供達となんら変わりのないものでした。学校の生徒はとても学習意欲が高く、私たちの拙い英語を理解しようとする彼らの目は輝いていました。もしあの学校がなかったら、彼らへの教育とその後のケアはどうなっていたのでしょうか。
無国籍の子供達は基準を満たした学校に通うための正式な書類を持っていません。私たちが訪問した学校は、決して公的に認められた教育機関ではありません。学ぶ生徒数に対する面積の基準も達成できていません。それは、無国籍の問題を抱えた子供達の数が多すぎるためです。少しでも多くの生徒を受け入れるために、午前と午後の2つの授業セッションに分け、教育機関として許容される基準を超えた数の子供を受け入れています。しかし、それでもタワウの無国籍の子供に対する教育は全く足りていませんでした。私たちに快く住居の訪問を許してくださった無国籍の方は、交通費も出せず子供を学校に通わせることができない家庭が多くあるとおっしゃっていました。
マレーシア東部の無国籍者全体の数はわかっていません。しかし、その数が深刻であることが現地の生活で伝わりました。マレーシアに移り住んだ無国籍の方々は、現地の方が嫌がる仕事を主に担っています。今や地域の産業は無国籍の方の労働力に頼らざるを得ない状態となっています。しかし、正式には存在を認めないという政府の態度は欺瞞に満ちたものだと言えます。責任を問うことのできない子供の代にも、教育・就職など重要なライフイベントでその影響が生じているという事実は重く受け止めなければなりません。
また、この状況は、現在の日本で問題視されている技能実習制度と重なります。現在はこの問題は広く認知され、新たな立法による解決が取り組まれようとしています。しかし、海外から低賃金の労働者を確保し、一方で労働者としては認知せず、職業選択の自由を含む基本的権利も認めないという政府の態度により、企業に酷使されている方は大勢います。そして、人権を無視した労働環境に耐えられず、失踪し、オーバーステイとなった実習生が多くいます。またこれは、公的な感知がなされないうちに、新たに子供が無国籍として生まれることにつながる可能性を高い状況だと言えます。マレーシアとは全く歴史的文脈・制度的背景が異なるものかもしれません。しかし、国際化が進む現代では、制度のズレによって国境の狭間に無国籍として生まれる人々の存在は、今後も日本を含む多くの地域で深刻化するものだと推測されます。
無国籍の子供たちは、教育のみならず、学校を卒業した後の就職、あるいは医療などの公的サービスを享受するあらゆる場面で不利な立場に置かれます。いわば、生まれた瞬間からその後の生の見通しを低下させる重荷を背負っているのです。問題の性質ゆえに、局所的な対処では限界も多く、また問題の把握すらも容易ではありません。そして、いかなる制度的対処が必要かを考えることは重要ですが、まずは問題の広範な認知と社会の関心が必要不可欠です。実際の無国籍の問題を向かいあうと同時に、私たち無国籍ネットワークユースの活動の意義を改めて実感する契機となりました。
タワウ報告書
市川実花
私は活動期間約 3 ⽇のフィールドワークうち、初⽇は⾵邪気味でジャングルを歩きまわり、次の⽇は⾼熱にうなされながら⼦供たちと紙⾶⾏機を⾶ばして恋チュンのダンスを 5 回(記憶なし)、そして最終⽇に完全にダウンした。恐らく、タワウへ向かう前に滞在していた中国から持ってきたものだと思われる。そういう訳なので、残念ながら無国籍の⼦供たちとの交流はあまり記憶にない。実感できるのは、彼らのインスタグラムの投稿が時々TL に流れてくる時くらいだ。それでも、帰国後にそれなりに考えたことがいくつかあるので、本レポートではそれを共有しようと思う(無理⽮理)。
① 慣れ、に付随する油断
帰国後、私は初めて途上国に⾏った時のことを思い出した。胃薬、⾵邪薬、酔い⽌め、防寒具、⾬具、ビニール袋、ウェットティッシュ、⼤量の⽔にとけるティッシュ。これでもかと念には念を⼊れて準備をしていた。しかし、いつからかこれらを何ひとつ持って⾏かなくなっていたのだ。慣れとは怖いもので、パスポートとスマホとお⾦さえを持てば後は現地調達すれば良い、という明らかな油断があった。私は⽐較的環境に適応できる⽅で、地⾯に掘ったただの⽳をトイレだと⾔われても多分動じないし、しばらく洗っていなそうな包丁で切られたフルーツも⾁も⿂も全然⾷べる。しかし、体調を崩したときだけは違った。幸い、タワウ滞在では、現地に住んでいるコーディネーターの⽅、中国語のできるララさん、⾃分たちが持っている薬を各々少しずつ提供してくれたユースの皆がいたのと、滞在先の環境が素晴らしかったのでほとんど不便はなかったけれど、これが⼀⼈だったら、⾼熱にうなされて動けなかった私は無事に病院にたどり着けただろうか。⽇本という温室のような環境で育った私が、より⼒強く⽣きている⼈々の環境に遺伝⼦レベルで適応できるわけがなかった。こういう油断をするのは、あと100回くらい海外に⾏ってからにしようと思う。
② 偏⾒について。
マレーシアの病院を経験して、⼀番驚いたことは、お尻に注射を刺されたことだ。⼀番感⼼したことは、注射針がちゃんと使い捨てだったことで、⼀番安⼼したことはイギリスでPh.D を取ったお医者さんに診てもらえたことだ。⾃分がマレーシアの病院に何を思い描いていたかは分からないが、それは⾃分が思っていた数倍良い環境だった、注射をお尻に刺されたことを除けば。つまりそれは私が何かしらの偏⾒を持っていたということだ。しかし私は⾃⼰紹介で⾃分のことを地球市⺠だと⾔うこともあるし、何にも偏⾒は持っていない、と勝⼿に⾃負していた。⽇本社会において、偏⾒を持つのは良くない、と諭される機会は意外と多い。ジェンダー、セクシュアルマイノリティ、外国⼈、障がい者などへの理解・関⼼が⾼まった現代だからこそだと思う。しかしそこで私は思う。私がこの偏⾒を持たないことは可能だったのか、と。実際に⾏って⾒たり経験したことがないのだから、勝⼿なイメージを持つのはごく当然のことではないのかと。⽇本で⽣きていたら、マレーシアの医療事情など知る由もない。諭されるべきは、偏⾒を持つこと⾃体ではなく、本物に出会ったときにその偏⾒をアップデートする柔軟性を失うことなのではないか。後者でも良いのだ、というある種の伸びしろのようなものをもっと強調すれば、多くの⼈がもっと容易に、そしてもっと単純に、⾃分と異なるアイデンティティと接することができるのではないかと考えた(もちろん何の偏⾒もないと⾃信を持って⾔えるのであればそれに越したことはないが)。
③ ⼼にあと少しの余裕を。
⾼熱にうなされる私を(気持ち的にも体温的にも)救ってくれたのは、SNY のみんながセブンイレブンで買ってきてくれた熱さまシートだった。英名は“Bye-Bye Fever”。粘着剤によって、睡眠状態にありながらも冷たさを固定しておける。体に微妙にフィットしない⽔⼊りペットボトルとは格段に快適さが違うし、⽔滴で体が変に冷える⼼配もいらない。本当に素晴らしい発明品だと⼼から思った。でも、もしも⽇本で⾼熱を出していたら、そんなことは思わなかっただろう。⽇常とは切り離された環境下で、諸々の不安要素が混在していたから、微かな光が普段よりも際⽴って⾒えたのだと思う。便利さとは何だろうか。私の⽣活を正常に成⽴させるためには、スマホ無しの⽣活にはもう戻れない。ガラケーを買ってもらい⼤喜びした⼩5の感動は⼆度と味わえない。物質の豊かさは時に⼼の豊かさを侵⾷する。“幸せ”が相対的なものだという事実に⽬を向けると、幸せに⽣きる、というのにも絶対的な尺度がないことは明らかで、変な⾔い⽅をすれば、⾃分がいかに幸せだと思い込むかということに⾃分の幸せは託されている。今⽇も健康に⽬覚めてよかった、早稲⽥⼤学が潰れなくてよかった、電⾞が動いていてよかった、地球が滅びなくてよかった…感謝することは⽇常に無数に転がっている。⼈によって体感速度は違えど、常に進歩し続けるこの世の中で、今この瞬間まで当たり前に存在している事物に⽬を向けることは⾮常に困難だ。しかし、幸せのハードルを下げて⽣きることほど幸せなことはない。私は、功利主義的な考えの中では損をするタイプかもしれない。
以上が、私のマレーシア滞在での気づきです。最後に、ララ先⽣、デイビット、ローさん、SNY のみんな、迷惑をかけたすべての⼈に感謝の気持ちを込め、国をまたぐ周遊の旅は⼆度としないと誓います。
マレーシア・タワウ研修旅行 報告書
2019年4月20日 早稲田大学政治経済学部2年 島田幸汰
- 概要
日時:3月2日〜3月6日 場所:マレーシア ボルネオ島 タワウ、センポルナ 参加人数:ユースメンバー7人+陳教授
- 目的
タワウの無国籍の子どもたちと触れ合い、生活を学ぶことで無国籍者のことをより良く知り、これからの 活動に活かす。
- センポルナとその周辺島々への訪問について
本報告書の中では、センポルナとその周辺島々への訪問について記述する。 ユースメンバー4人と陳教授、現地の方2人でセンポルナやその周辺島々を訪問した。日帰りで合計3 つの島を訪問し、うち1つでは無国籍の方々の生活を見ることができた。
センポルナまでの1時間以上の道のりは、現地の方2人の車の運転してもらったが、ユースメンバー全 員が参加した場合、タクシーなどの手段を取る予定であった。
センポルナでは船に乗り継ぎ、最初の島を訪問した。その島では山登りを体験し、現地の観光業を知 ることができた。島の最高峰からの景色はとても綺麗で、日本では見られないような風景を眺めることが できた。
2つ目の島では、現地のリゾートホテルが運営されている島を訪問した。綺麗な海に囲まれていた島に は多くのコテージが並び、結婚式などを挙げるにはもってこいの場所のようだった。また、そのリゾートの 雇用について興味深いことを聞くことができた。そこでは無国籍の方も雇用しているらしく、英語の教育 やOJTでしていると聞いた。また、この島では短い時間だが、海に入りシュノーケリングなども楽しむこと ができた。
最後の島では、無国籍者の住む村を訪問することができ、彼らの実際の生活を見ることができた。また 案内をしていた方が建てた学校にも訪問し、子供たちと交流することができた。島では、何軒かのお菓子 を売っている店があった。また、船を作ったりする男性や子育てをしている女性などもいた。賭け事をして いる島民の集団もいた。学校では子供たちは英語の基本的な挨拶ができていた。そこで紙飛行機など の遊びを教えたり、交流したり、お菓子を配ったりすることができた。
帰りの船では波が荒れ始め、服が濡れることが多く、着替えを持って行く必要があった。
- 課題と反省
本訪問には、大きく課題と反省が2つある。 1つ目は、ユースメンバー内で事前の情報と意見の共有が十分なされておらず、3月2日の夜に長い時 間会議をせざるを得なかったことである。訪問先が外務省の安全情報ページで危険度がレベル3表記さ れていたことから、訪問するかしないかの議論が行われた。この議論は必要不可欠ではあったものの、 前日に決定事項を出したことで、先方への迷惑が生じた。同時に、訪問しないと決断した当初訪問予定 だったユースメンバーは行程を変える必要があり、予定外の別行動となった。そのため、情報共有・意見 共有そして意思決定がより早い段階でなされる必要があったと考えられる。
2つ目は、我々の目的が薄れてしまっていたことである。楽しい時間を過ごすことはできたが、無国籍 者がいる島の訪問は1つのみに終わってしまった。現地の方の都合もあったのかもしれないが、事前の Facebookを使った打ち合わせなどで我々の大きな趣旨を伝える必要があったように感じる。
また、小さい課題点も多かった。例えば、船の中においておいた服がなくなることや、着替えを持って行 かなかったことによって少し不便が生じた。
⿃尾祐太
早稲⽥⼤学政治経済学部政治学科⼆年
無国籍ネットワークユース
タワウでのスタディツアーを通じて
2019 年 3 ⽉ 1 ⽇、⽻⽥空港を⾶び⽴った私たちは KL を経由し、翌⽇タワウへと降り⽴った。タワウと聞いて、その場所が分かる⼈はほとんどいないのではないだろうか。かくいう私も今回のスタディツアーで初めて、この地名を⽿にした。そのタワウに暮らす⼈々の中でも最も「不条理」を被っている⼈々―「無国籍の⼈々」−と交流を深め、その⽣活の実情を知ることが我々の主たる⽬的であった。
3 ⽉4⽇、我々は「Grace training center」という無国籍の⼦供たちが通う学校を訪れた。ここには⼩学⽣から中学⽣にあたる年齢の⼦供たちが通っており、教会によって運営されている。授業は基本的にマレー語で⾏われているが、英語教育も充実している。私が担当した 10 歳児のクラスの⼦は皆英語を話すことが出来た。これは⾃分にとって⼤変驚くべきことだった。「先進国」⽇本の中でも⽐較的恵まれた⽴場にいる早稲⽥⽣の多くよりも流暢に英語を喋っているのだから。⽇本の英語教育の次元の低さを嘆くと共に、純粋に⼦供たちの優秀さに感嘆させられた。正直なところ、交流をしているときは無国籍であることを意識する瞬間は皆無であった。そうした意識の加速には、スマートフォンを持っている⼦が多かったという要因も⼤きく寄与していただろう。⼦供たちは「IG 教えて」と私たちに⾔ってきた。何のかことか分からず聞いてみると、Instagram であった。もしかしたら私より先にインスタというツールを使い始めていたのかもしれない。⼦供たちに対する学校での印象はつまるところ、活発で、優秀な「現代っ⼦」というイメージであった。無国籍であることの苦悩を感じることはなかった。
しかし翌⽇に⼦供たちの家を訪問したことにより学校で抱いた印象は⼤きく変化することとなった。彼、彼⼥らの家は海辺にあった。ただ、このことが意味するところは「美しい⾵景」では決してない。そこに広がっていたのはイリーガルに建てられた「家」の村であった。国籍がないため、合法的に⼟地を得ることなど勿論できない。そのため船で海からやって来て、たどり着いたところに家を建て始めたようだ。「家」に⼊ると、床は斜めっていて中は薄暗い。住みやすい環境では全くない。その⼀⽅、テレビはあり聖書を題材としたアニメを⾒ていた。教会が DVD を配布したのだろうか。もちろんテレビの電波も違法で受信していることになる。
他の家を訪ねた際は、5⼈ほどの家族が集まっていて⾊々と話を聞かせてくれた。彼、彼⼥らは「トラジャ」と呼ばれる⺠族の⼈々であった。トラジャの多くはインドネシアに住んでいるのだが、より「マシ」な⽣活を求めて海を渡ってきたそうだ。ただ、そうはいっても⽣活は貧しい。その家族は闘鶏と農業で⽣計を⽴てているようだったが、決して「稼げる」暮らしではない。それに学校へ通わせるのも完全にタダとはいかないようだ。彼、彼⼥らが最も財政的な困難に直⾯するのは葬式の時である。私たち⽇本⼈の感覚でいえば、「なぜ?」と思うだろうし、それは他の多くの国⼈々にとっても同様であろう。これにはトラジャの宗教が⼤きく関係している。トラジャの宗教では家族が全員集まらないと葬儀を⾏うことが出来ない。それまではミイラ化した遺体と⼀緒に⽣活するそうだ。
そのあたりに関しては、下の記事などを参考にしてもらいたい。
(https://courrier.jp/news/archives/92749/)
タワウに住むトラジャの家族は、お⺟さんの葬式に出るために何年間もかかってしまったと嘆いていた。ただでさえ帰省するのにお⾦はたくさんかかるが、より故郷へ帰ることを困難にしている要因がある。それは無国籍であるという事だ。無国籍である故に、合法的なルートで国境を超えることは出来ない。そのため「闇の」業者に頼んで送ってもらわざるをえない。そのため渡航費は通常よりも⾼くなってしまう。我々が当たり前に享受していることが決して当たり前ではないことを改めて痛感させられた。
「がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努⼒の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。」
この⾔葉は 2019 年 4 ⽉、東京⼤学の⼊学式で上野千鶴⼦⽒が述べられた⾔葉である。我々は当たり前のように教育を受け、職を得、ときには海外へも⾏く。ただこれは決して「普通のこと」ではないのだ。「たまたま」⽣まれながらにして⽇本国籍を得た私はその時点で恵まれている。さらに⾔えば、早稲⽥⼤学という有名な⼤学で学ぶことが出来でいる。昔は努⼒のおかげだと思ったこともあったが、それは与えられた環境下での努⼒にすぎなかった。だからといって、決して悲観的になる必要はないと思う。東⼤の⼊学式の祝辞の終盤、このように上野⽒は述べられた。
「あなたたちのがんばりを、どうぞ⾃分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能⼒とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、⾃分の弱さを認め、⽀え合って⽣きてください。」
無国籍という「恵まれないひとびびと」に対し、⼤きな助けとなることはできないかもしれない。しかし、この問題を知り、当事者と関わったものとして⾃らの恵まれた環境を活かし、学び、この問題の周知に努めたい。
SNY タワウ研修 報告書
早稲田大学政治経済学部政治学科 2 年
倉田怜於
1.SNY の⼀員としての⾃分なりの⽬標設定
今回のタワウ研修は、最初話をいただいたときから渡航直前まで活動内容が不明な点が多く、目標設定が難しかった。一方で、われわれ SNY が研究対象としている「無国籍」の方々の生活実態を知らないことに、メンバー一人ひとりが自覚的であり、僕は無国籍をじかに感じることを第一目標とした。
そして発展的な目標として、それを受けて自分は何ができるかを考えることにした。今回、チャリティで無国籍の
子供たちのために開かれている学校があること、そして(これは現地で知ったことだが)センポルナ港から行くことができる島の一つに無国籍の人々が住んでいるところがありそこに学校を創設している方に案内してもらえることが事前に分かっていたので、まずはケーススタディとして、彼らがどのような活動をしているかを知ることに努めたいと思った。
2.現地にて
今回の渡航の中で無国籍の人々と触れ合う機会は大きく2回あった。1回目は、渡航2日目にセンポルナ港からフェリーで渡り、いわゆる「海の民」としての生活をする無国籍の人々の住む島に上陸したとき、もう1回は、渡航3日目に先述したチャリティで開かれている学校に伺って通っている無国籍の生徒たちに教育支援を行ったときである。なお、学校に通う生徒の1人が住んでいる今度はいわゆる「陸の民」の生活をする無国籍者が集住するエリアに渡航4日目に学校の先生の協力を得て訪れ、そこに住まうご家族ににお話を伺う機会もあった。ここでは2日目のこと、3、4日目のことの二つに分けて感じたことをまとめたいと思う。
2.1 渡航 2 ⽇⽬
渡航2日目は、今回の渡航を通じてガイドをしてくださったデイビットとロン両氏の協力を得て活動した。外務省が発表している危険度の問題もあったが、僕はセンポルナ港から3つの島を回るコースを選んだ。
うち2つの島は観光地やリゾート地であったが、残りの1島は無国籍の人々が住み着く島であった。我々が案内されたのはその島に住む無国籍者のなかでも裕福な層が住む地域であった。まず島の様子を項目別にまとめる。
(住居)そこでは海の上に家を建てたり海岸線ギリギリのところに家を建てたりして生活していた。家の中まで見ることはできなかったが、外から見る限り木造である程度しっかりした構造の家が立ち並んでいた。
(人々・衣服)住んでいる人々の内訳は、子供とそのお母さん、またおじいさんやおばあさんとみられる人がほとんどで、大人の男性はボートを組み立てていた数人を除きほとんどいなかった。大人・子供ともに痩せ細った体型の人はおらず、みなみたところでは健康体とも言える様子であった。大人たちは洋服を着ていたが、子供たちのなかには上半身が裸、もしくは全身が裸の子供もいた。一方で、ディズニーキャラクターのミニーがプリントされたラウンジセットのような服を着ている子供や、サッカー選手のレプリカのユニフォームのようなものを着ている子供もいた。赤ちゃんも複数の家におり、バネがついていて上下に動く吊り下げ式のゆりかごが印象的であった。子供たちは、我々の訪問に興味を持ち、一部の子供たちがどこまでもついてきた。しかし、徐々に“Money!”とお金を要求するようになり、これについてはデイビット氏からあらかじめ情報を得ていたので難なく対応できたが、生活の実態を表しているのだろうと感じた。ちなみに、ある家に足を負傷した少年がおり患部にハエがたかってしまうため困っているという話を聞いた。その流れで話を聞いたところ不定期に訪問してくれる医者がいるという。
(食事)彼らの主食が何であるかを調査し忘れた。だが、気になったこととして、地面(ここでは砂浜であるが)にお菓子のプラスチック包装のゴミが散乱していたことである。かなりの量が捨てられていた。ゴミを処理するシステムが確立されていないことは要因の一つであるが、そもそもなぜこのゴミが存在しうるのか、つまりどこからお菓子が来ているのかが気になった。その原因の一つは以下に記載する我々も参加した活動の一つが関わっているように思う。
(島の様子)海岸線に沿って住宅が立ち並んでいたことは先述の通りだが、中には家の前で商店を営む家もあった。
印象的だった施設・生活の様子が主に3つあった。まず喫煙スペースがあったことである。一見では何のためのスペースかわからない、木で簡易的に囲まれたスペースがあったが、聞いてみると喫煙スペースだということだった。2つ目はスポーツ用のコートがあったことである。我々が訪ねたときは、家の周辺で遊んでいた子供たちに比べ年齢層が高めの子供達がバレーボールをして遊んでいた。真ん中にはネットが張られ、ビーチバレーのごとく遊んでいた。
そして3つ目が家の前で賭け事をしていたことであった。トランプを使い、ポーカーのような要領でカードが配置されていた。手元にはリンギット札が重ねられており、さらに驚くべきことに、その額は卓上にあるお札を合計すれば2000 円相当の額があったのである。出所や使い道については不明である。
ここでの我々の活動をまとめる。まずその島に訪れた理由は、ガイドのデイビット氏が学校を不定期に開いているからで、教室に相当するスペースもあった。われわれはデイビット氏に授業をするよう依頼され、折り紙を集まった生徒一人に一枚配布し紙飛行機を折り、飛ばす体験をしてもらった。その前後に、デイビット氏が本土から持ってきたお菓子やペットボトル入りのジュースなどを子供たちに配った。これが(食事)の項で触れたお菓子のゴミの理由の一つだと考えられる。
ではここで我々にどのようなことができるだろうか。デイビット氏の活動は、現地の人に名前を呼ばれ上陸すれば子供たちが集まってくる人気を得ている点、そして学校教育を普及させた点で大変有意義なものであると思う。しかし、その人気の源には食べ物や飲み物を定期的に持ってきてくれることが大きく関わっていると思った。それはわれわれがお菓子を配った際の子供たちのもらう様子が慣れていたように感じたことが理由の一つである。ここで僕が持った疑問点は2つで、ひとつは食べ物や飲み物を配布するとしても、栄養バランスが悪く依存しやすい塩分の多いお菓子を配布することは現地の子供たちに悪影響を及ぼしてはいないか、ということ。もうひとつはそもそも食べ物や飲み物を配りに行くよりもっとよい貢献の方法があるのではないかということだ。とりわけ2つ目については、青年海外協力隊のように物資ではなく技術を伝えることが大事なのではないかと感じた。
2.2 渡航 3・4 ⽇⽬
渡航3日目は、現地に住む無国籍の子供たちが通うチャリティで設立された学校を訪問し、教育支援を行なった。
翌日の4日目はその学校に通う生徒の1人の住む地域を先生に紹介してもらい、生活実態を見させていただいた。
3日目にうかがったのは「Grace Training Center」という学校で、Calvary City Church Tawau という教会が寄付金などをもとに運営している。この学校には年齢幅の広い生徒が在籍しており、上級生(中学生以上)と下級生で着ている制服が異なる。上級生はいわば下級生のお世話がかりのような面もあるようで、我々が模擬授業しに伺っている間、様々な場面で助けてもらった。学校のシステムとしては午前と午後の二部構成で、それぞれ入れ替わりで授業が進行している模様であった。それでも入学を希望する子供全員を受け入れられているわけではないらしく、毎年審査を行い漏れてしまう人もいるそうだ。我々は英語で授業を行ったり日本語を交えたり日本の文化を伝えたりする授業を行った。感想としては、子供たちがとても規律正しくまた秩序を保って動いていたことが印象的だったことがある。先生がいつものように号令をかけると、生徒たちはいっせいに挨拶を我々にしてくれた。また、僕が折り紙を教える授業を一回実施し、紙を配布する際、色や柄まで配慮することができず適当に配ってしまった。しかし自分の欲しい色の折り紙を隣の生徒が持っていても決して奪い合いなどにはならず、平和的に交換するか、僕に直接何色が欲しい、など教えてくれたことは、日本の学校教育を経験しているからこそとても意外な出来事で驚いた。
ここでの交流で驚いたこととして他に、子供たちが Instagram のアカウントを持っていたことだ。帰る直前、集合写真を撮ったあと、我々のもとに子供たちの列ができた。中には名前だけ書いて欲しいといって普段使っているのであろうノートや教科書とペンを持ってきてサインをせがまれることもあったが、大体が IG、つまりインスタグラムのアカウント名も名前と一緒に書いて欲しいというお願いのされ方をした。さらに上級生の中には私用のスマートフォンを持っている子もいるようであった。ただしこの事情は翌日の家庭訪問での会話で多少理解された。後述する。
4日目は先述の通り、前日訪問した学校の生徒のうちの1人の住む地域に、先生の紹介でうかがった。2.1 に倣い、まずは項目別で整理したい。
(住居)こちらも海岸近くに集住するかたちで形成された無国籍者の住む地域であるが、こちらは農耕や養鶏をする習慣をもつ人々であった。住宅は高床式の家もあったが、地面に着くように建設された家屋も多く並んでいた。訪問を許してくれた生徒の家にお邪魔して中を拝見した。昼間ながら薄暗く、天井も低い構造であったが、重要なことは電気が通っていた点である。その地域で上を見上げると電線というより導線という細さの線が引かれていて、各家に配線されていた。話によると、近くの公式な電線から業者(もちろん闇の業者である)が電気を盗んで、配線しているものだという。そしてその非合法な電気はかなり利用されているようで、うかがった家ではテレビを動かしたり扇風機を回したりするのに利用されていた。なお、テレビでは中国語の DVD が再生されており、アンテナはないのでテレビは見られないものと思われる。
(人々・衣服)2日目の島で出会った子供たちと違って、見知らぬ我々とは距離を置く傾向にあった。しかし同時にお金をせがむ子供たちもいなかった。衣服はみんな上下ともに着ていて、困っている様子はなかった。
(食事)詳しい食事の事情については詳しくはわからなかったが、農耕と養鶏を行なっていることはポイントである。農耕の目的の一つは後述の通り都市に出て売るためであるが、自給自足の生活も営んでいるという。養鶏については、元の目的は闘鶏だそうで、選手生命を終えると食用に回されるらしい。
学校に通う子どもを持つ別のある家で 30 分程度ゆっくり話を聞かせてもらった。主にルーツと家計の話をした。
その家庭はフィリピンにいる家族の一部が渡ってきて、子どもを産んで住み着くようになった無国籍者たちであった。故郷のことは忘れないが、帰る金銭的余裕がないのでなかなか戻れないという。ここでの渡航も公式の何かをさすのではなく、やはり彼らのようなパスポートを持たず正式な手続きでは渡航できない人々をターゲットにした輸送業者による便を指す。従って、足元を見た価格になっていると言っていた。収入についてであるが、その家に関してはさきに触れた家の近辺の農耕で栽培した野菜を都市に出て販売しているそうで、その実収入は月あたり 100 リンギット(日本円で 3000 円相当)である。他方支出に関しては、ある程度は自給自足で賄えているそうだが、生活の上では様々な支出が必要であり、さらに子供を学校に通わせる交通費(バス運賃)がかかるためその負担も大きい(話によると、バス運賃代として1日往復で計 2 リンギットかかるそうだ)。ここから一つ考察するならば、チャリティの学校だとはいえ、ある程度家計に余裕のある家庭であることが必要だということがある。これは先述のスマートフォンその他の話とリンクする事情だと考えられる。
最後に考察として我々が彼らにできることはなんであるかを考えたい。彼らの生活困窮の最大の理由はやはり国籍を持たないことであろう。都市に出ても働く先がない、合法的に住めないので違法建築をするほかなく、国家権力に怯えながら生活せざるを得ない、子供に出せる教育資金なども寡少になってしまう、など悪循環である。しかし学校に行く機会があるというのはかなり希望のある状況ではないかと考える。外部からの情報を定期的に得ることができ、自ら学びに行く姿勢が身につくので、自分の現状に何か疑問を抱いたときその感情が強い動機・原動力となり無国籍を脱却できる学を得られるようになっているかもしれない。だから、我々にできることの一つは学校教育の充実であると考える。受け入れなくてはならない人数が多いためみんなに満足されるような授業を展開するのは難しいかもしれない。しかしそのなかでも特別な体験をしたことで奮起される生徒が1人でもいればそれは成果であろう。生徒たちは非常にものごとに熱心で、友達同士とても仲よさそうに付き合っていた。そのエネルギーをじかに感じたからこそ、この期待を抱けたのだと思う。