Mobility and Human Rights: Interrogating Immigration Detention
早稲田大学国際教養学部の11号館にて、無国籍ネットワーク及びマギル大学国際開発学研究所との共同で「移動と人権:入国管理収容問題を人権の立場から問い直す」と題し、特別企画セミナーを行った。本セミナーの趣旨としては、入国管理収容をめぐる諸問題、とりわけ入管収容制度の実態、法的保護から排除された外国人収容者の状況、そして収容が解かれた後も国家の厳しい監視下に置かれた仮放免者の方々の状況について、入管収容に詳しい方々にお話を伺うということにあった。今回、お話をしてくださったのは、 難民の入管収容、強制退去など外国人の人権問題について長年取り組んでいらっしゃるマイルストーン総合法律事務所の児玉晃一弁護士、外国人収容問題や仮放免者の支援に積極的に取組んでおられる市民団体「BOND 外国人労働者・難民とともに歩む会」の事務局のメンバーである工藤貴史氏、そして「仮放免者の会」の会員であり過去2回収容経験を持つA氏の3名である。なおこのセミナーの開催にあたってはトヨタ財団からの研究助成金の一部を使用した。
最初の話者である児玉晃一弁護士からは、大きな法的枠組みとしての入管収容制度及びその法的矛盾点についてご説明いただいた。日本の入管収容制度においては退去強制事由に該当すると判断された外国人に対しては、人道的な配慮が必要なケースを問わず、すべて収容するという全件収容主義という立場をとる。このため 例えば難民性の非常に高い場合であっても長期的収容を強いられる。児玉弁護士によれば現在の入管収容制度のあり方そのものが、「在留資格を持たない外国人の人権は認めない」という日本の入管法の姿勢を示すものであり、この考え方は基本的人権の保障を規定した日本国憲法に反する。児玉弁護士は、外国人の人権について本来絶対的な優位性を持つ憲法の人権規定ではなく、むしろ入管法が事実上優先されていることを指摘されていたが、これは入管収容制度そのものの法的矛盾点を端的に示すといえよう。また児玉弁護士からは 入管収容制度の国際比較という視点から、収容者の人権を大きく配慮したイギリスの入管収容施設の様子をご報告いただき、日英の外国人の人権配慮の大きな違いが浮き彫りとなった。最後に児玉弁護士が、収容という強制的な身体拘束について「個人の生命を奪うことに次ぐ重要な人権侵害」であると位置付けた東京地方裁判所の藤山裁判長の言葉を引用されたのが非常に印象深かった。
二番目の話者である工藤貴史氏からは、支援者側の立場から実際の入管収容施設に於ける収容者の日常、及び収容を解かれた後も仮放免者として困難な法的地位に置かれた方々の状況について、大変具体的な報告をしていただいた。まず入管収容施設、特に東日本入国管理センター(通称「牛久入管」)における日常的人権侵害の状況について様々な点が指摘された。主な問題としては、収容者の身体の移動の自由が極端に制限されている点、長い収容を強いられ精神的ストレスから体調を崩す収容者が非常に多いという点、それにもかかわらず収容施設内での医療体制が整っておらず、体調の異常を訴えても医師に診てもらえない、十分な治療が施されないという医療ネグレクトの現状があげられた。今年の3月に東日本入国管理センターで発生したベトナム人収容者の死亡事件は、まさに入管収容施設に蔓延する医療ネグレクトが原因であったと指摘されている。また収容問題と密接に関わる点としてあげられたのが、仮放免者の状況である。仮放免とは一時的に収容が解かれる状況を示すが、常に移動の自由が制限され、しかも就労の権利も、健康保険もないため、収容が解かれた後も、人としてごく当たり前の生活ができない。また仮放免者は頻繁に(一ヶ月あるいは二ヶ月に一度)品川の東京入管に出頭し、仮放免を更新することが義務付けられている。ここ数年では特に仮放免者に対する入管の規制管理が厳しくなり、就労の事実や、許可なしでの都道府県間の移動を理由に再収容となる事例が増えている。工藤氏によればこうした仮放免者の数は3500名にも上るという。一般的に入管収容は、仮放免とは別の問題として捉えられるが、工藤氏の指摘するように、仮放免は収容の継続として考える姿勢が非常に重要であると考えさせられた。
最後の話者であるA氏からは、収容を実際に経験した当事者側の立場からお話を伺った。彼は収容を2度経験し、現在は仮放免者としての生活を強いられている。A氏は東日本入国管理センターでの収容経験について、入管職員による非人道的な扱いの様子を お話くださった。例えば職員からは毎日のように「お前ら日本にいる権利はない」「帰れ」と言われ、収容者に対する暴言は日常茶飯事であったという。また収容者が身体に痛みや異常がある場合、医師による診断を希望することができるが、実際には2、3週間待つことが多く、しかも医師が処方してくれるのは簡単な痛み止めだけであったという。つまり収容者は通常の患者としての取り扱いを医師から受けることはない。これは工藤氏が指摘する医療ネグレクトの典型的な事例であり、収容者は人ではなく、国から排除するべき対象として扱われていることがわかる。A氏の場合は、持病の問題だけでなく、2度にわたる長期収容によって精神的ストレスが悪化し、仮放免中の現在は、収容をきっかけに悪化した病気と闘う毎日であるという。このように収容中の医療ネグレクトだけでなく、長期収容による精神的なストレスによって、身体や心の病を悪化させるケースが非常に多く見られるということも入管収容問題を考える上で忘れてはならない点である。また仮放免中の身では健康保険がないため、収容中に悪化した病気を治療することがままならない。A氏の場合、収容所内で持病が悪化し、仮放免になった後に手術をする状況までに至ったが、健康保険もないため、多額の借金を抱えることになったという。 仮放免者は働くことも、自由に移動することもできず、健康保険もない状況に置かれ、 病気の治療を受けたくとも病院に行くこともできない。A氏は仮放免中の現在の身について、生きる権利が否定され、いつまた収容され強制退去になるか分からないという「グレーゾーン」を生きているという。この「グレーゾーン」という言葉は、生きる権利を否定された当事者から発せられるからこそ、その重みを実感することができるのだと感じた。
このような収容者及び仮放免者の「生存権の否定」の問題については、会場の参加者からもご意見をいただいた。在留資格を持たない外国人に医療サービスを提供している北関東医療相談会の理事長である長澤氏及び事務局の加藤氏が本セミナーに来てくださったが、長澤氏は、質疑応答の中で、 オーバーステイとなった外国人や仮放免者には基本的な「生存権」がないという状況を医療支援者側の立場からお話くださった。特に印象深いケースとしてあげてくださったのは、仮放免中に売春をすることで生計を立てていたあるアフリカ系の女性の事例であった。この女性は妊娠したことがわかり、産婦人科での診断を求めたが、在留資格がなく健康保険もないこと、父親が誰であるかわからないことなどを理由に、医師の診断そのものを拒否されたという。長澤氏はこのような在留資格のない外国人が基本的な医療を受けられないという状況について「法が人を守るのではなく、法が人を弾いている」と述べておられた。収容者や仮放免者など当事者の実際の経験から明らかになることは、児玉弁護士が指摘されたように、国家が入管法の下に、在留資格のない外国人の基本的生存権を否定することのできる制度を作り出したということである。 無国籍ネットワーク代表の陳教授が「一体、我々はどこに助けを求めればよいのか」と述べておられたが、これは、在留資格のない外国人の人権を認めずむしろ排除するような法制度と長年闘ってこられた支援者側の率直な言葉であるといえよう。
なお、本セミナーにはご参加いただけなかったが、15年以上にわたり、毎週のように東関東入国管理センターの収容者を訪問し、支援を行なっている方々を紹介したい。牛久入管収容所問題を考える会の田中喜美子氏、そして牛久友の会の代表のマイケル・コールマン神父である。田中氏は、つくば市でカフェを経営する傍ら、毎週水曜日の定休日を利用して、20年近く収容所の訪問を続け、また収容が解かれた仮放免者の方々、とりわけクルド人コミュニティの支援も行なっている。一方、コールマン神父は今年で84歳になるが、北関東医療相談会の加藤氏とともに、収容所の毎週の訪問、差し入れ活動を続けている。在留資格のない人々の人権が制度的に否定される状況において、こうした地道な人道的活動されている様々な支援者の姿を通して、人権の重みを学ぶことができるのではないかと感じた。
今回のセミナーは無国籍ネットワークの連続セミナーの一環でもあったが、陳教授が指摘するように無国籍の方々の入管収容問題及び仮放免の問題は、帰る国、保護する国家がないという点からも非常に複雑となることも忘れてはならない。最後の点として取り上げておきたいのは、入管収容問題は、日本だけの問題ではなく、これは国際的な視点から考えていかねばならないという点であり、児玉弁護士が指摘されたような比較の観点をもっと取り入れることが必要である。国連の世界人権宣言の第3条では、法的地位にかかわらずいかなる人々にも平等に生きる権利、自由の権利、安全が保障される権利が与えられるべきであると明言されている。民主主義であるはずの日本ではこうした基本的権利が必ずしもすべての人々に平等に与えられていない。本セミナーで議論の焦点となったのは在留資格のない方々の「生存権」の問題をいかに改善していくことができるのかという点であったが、生存権が否定された人々の存在、そしてそれが法によって当たり前のことになっていることの「非人道性」をより積極的に社会に問いかけていく場を創り出すことの重要性を感じた。